[FliFe]証明問題
「通名」が「特権」だと思われているということを、最近知りました。
「通名」と「本名」、「本名」か「通名」ということについては、小学校時代からの悩みのタネでしたけれど、それは、わたしにとっては「特権」というよりは、とても大きな負担のようなものでした。これが、「特権」に見えるという文脈は、わたしにはまったくなかったので、「特権」だといわれて、正直おどろきました。いまでも、理解できません。
なんで二つ名前があるのかおいらにも理解できません。究極のところ名前がいくつあってもいいのですが日本人らしい名前を名乗るのをやめてほしいということです。特権じゃないかもしれないが、日本人だと思って近づいた人間が被害を蒙るから朝鮮一号とか朝鮮二号とかわかりやすい名前をつけてもらいたいんだ。もしくは額に「朝鮮」と刺青しておくとか。
以下うだうだと量産型朝鮮人の言い訳
先日、書いた文章のなかで、パレスチナ問題の学習会に参加をしたとき、「本名」を言おうかどうか少しまよいました、と書きました。そこに注目されて、ほら、都合のよいときに、「通名」を使ったり「本名」をつかったりと使いわけているではないか、そんな自由きままに「選択」ができるということは「特権」ではないのか、というようなコメントをいただきました。誤解を受けるような書き方だったのかも知れないと思うので、少し補足しておきたいと思います。
パレスチナ問題の学習会には、いくつか参加をさせていただいていますが、基本的には積極的に「在日」であることをいったり、「本名」を名乗ったりすることはありません。「在日」であることは言わないまま、「通名」を名乗り「日本人」のようにして参加をしています。けれど、いつも、どこかの段階で「在日」であることを言わなければならない局面にであいます。そうして、そんなとき、わたしはいつも、おずおずとしながら「すみません、わたし『在日』なんです」と言うことになります。このときの、おずおずさは、くすぐったさからくるもので、パレスチナ問題に関わっている方々とお話をしていると、必ず日本の植民地支配のことについて言及をされたり、パレスチナ問題と「在日」問題に関するアナロジーを話されたりするので、言及されているわたしとしては、黙っている訳にはいかなくなってくるのです。「本名」で生きていたら、名前からわたしが「在日」もしくは、朝鮮に関係する何かだなあ、とすぐにわかっていただけるので、いちいち「在日」です、と後から言わずにすむというメリットがあるのですが、でも、わたしは、自分が「差別」されないだろう、と思われる場所や、「差別」しない人たちの前だけ、自由きままに「在日」です、というのは、少しムシが良すぎるのではないかと思って、基本的には社会生活と同じく「通名」を名乗ることにしています。
わたしがパレスチナ問題や、パレスチナの人々のことを考えるようになったのは、わたしが日本で感じている生きづらさのようなものを、パレスチナの人々にも同じように見たからです。自分とパレスチナがアナロジーに感じられた、だから、パレスチナ問題に関わるようになりました。つまり、わたしがパレスチナ問題に気づいたのは、自己問題からだったということになります。パレスチナ問題を、それだけで、大事な問題、取り組まなければならないことだと思ったわけではありません。わたしが、パレスチナ問題に気づいたきっかけには、自己問題がある、そのことを、わたしは忘れてはならないように思うのです。だから、「在日」問題からパレスチナ問題を考える、という回路をなるべくとらないように、ダイレクトにパレスチナのことを考えることができるように、学習会に参加をするときなどには、「通名」で「在日」であることを言わずに参加をすることにしています。
けれども、困ったことに、パレスチナ問題に関わっている方が、必ず日本の植民地問題や「在日」問題について、言及されるのですね。すると、わたしも、「在日」そして「朝鮮」に関係するなにかとして、意見を言わないといけないことになります。そこで、初めて「在日」であることを告げることになります。「本名」までは、聞かれなければ言わないですけれど、実は「在日」なんです、と言うことになります。こんなときの、「在日宣言」ほど、くすぐったくて、照れくさいことはありませんが、言われる側の人としては、なんでもっと早く言ってくれないんだ、と驚かれると思います。でも、わたしは、「在日」のことを知っている方々の前でこそ、あまり「在日」であることを言わないことにしています。なぜなら、あまりによく知ってくださっているので、パレスチナ問題から、話題が「在日」問題にそれてしまうように思えるからです。「在日」問題に言及してくださるのは、とてもうれしくありがたいですけれど、でも、中心的に考えなければならないことを薄めてしまうような気がするので、基本的には「バレる」までは、「バラさない」といけないような雰囲気になるまでは、言わないことにしています。
先日、参加をした学習会で「通名」か「本名」かで悩んだというのも、そういうことを思ったからです。わたしにとって、「通名」のほうが「都合がいい」とか、遊び半分で「本名」を名乗ってみようとか、そのように思ったわけではありません。わたしは、その学習会にとって、どちらがよいか迷っただけであって、結果的には「通名」か「本名」かを、わたしの「選択」によって、使いわけることになるのですけど、でもそれが「特権」といわれると、首をかしげてしまいます。わたしは、パレスチナ問題を「特権」化してあつかいたいために、「在日」という別の「特権」(言葉がややこしいですね。「在日特権」はないですけど、「在日」という「特権」=「個別」/「固有」の問題はあると思います)を持ち込まないことを選んだだけです。「通名」の便利さは、この「固有」性を消し去ることができることだと思います。「在日」でも「日本人」でも、普遍的に同じような地平で、ある問題を考えたり、取り組んだりすることができる、わたしは、自分がいつも自己問題から何かを始めてしまう弊を「通名」を使うことで、なるべくおかさないようにしたい、そう思って「通名」を名乗っています。
以上が、学習会で「通名」を名乗るか「本名」にするか、でまよった理由です。
そんなお前の心情なんぞ知るか馬鹿。地球上の大多数の人間にとって立場を選択することなどできないんだよ。名前という記号を使い分けることによってあっちにもこっちにも立場を変えられる自分の立場を半万回感謝しろよ。
ただし、「在日」に対して、差別意識があったり、悪意があったり、または、まったく無知・無関心である人々の前では、絶対にそのようにまよったりはしません。自由きままに選ぶ、などということは選択にはありえず、必ず「通名」を名乗り、「在日」であることを隠します。もちろん、一番の理由は、差別されることを避けるためですが、もうひとつは、「在日」に対して差別意識がある人に自己弁護をしなければいけない、「在日」のことに無知・無関心な人に、自己証明をしなければならない、この徒労、日本人:「在日」のおよそ200:1の比率のうち、50人くらいは「在日」のことを知っている人がいるとしましょう(もっと少ないと思いますけど)、その150人を相手に、毎回毎回、自己弁護をしたり、自己証明をしたりしなければならない、その果てしなく、永遠に続く徒労をくり返さなければならないことに、わたしは途方にくれてしまうからです。
甘えんな屑が。世界中の誰も彼もその徒労から逃げられないんだよ。民族だろうが国籍だろうがなんだろうが、自分の立場と正当性を説明し、理解してもらおうとする努力から逃げてしまっては世界のどこからも味方なんか現れねえよ。浦和サポがペットボトルに水つめて投げました。「これだから頭の劣った方々は」とかなんとか言われるけれどもここで「いやいや俺らだけ悪者になるのはおかしくね?」って言ったらどうにもならないだろ。「浦和サポだがあいつは悪い」とか「浦和サポだがあいつは悪くねえ」とかなんとか言わなきゃならないだろ。その結果どうなるか知らないけどさ。そんなときに「僕は浦和サポではありません」と言うような卑怯者に生きる資格は無いな。
徒労かも知らんが、その努力をしないからお前らは悪意の対象にされ続けるんだよ。全員カミングアウトして普通に生活してみたら最初は大変かもしんないけど、案外みな普通に受け入れるんじゃねえか? 「実は普通の人なのね〜」って思うんじゃねえの? おいらは2002年以来の朝鮮人嫌いだから絶対にそうは思わないけどな。みんなは違うんじゃないか?
まあ、以下もうだうだと言い訳が続くんだけどさ、浦和サポが浦和サポ故の悪評を黙って受け入れるように、朝鮮人も朝鮮人故の悪評を黙って受け入れろ。そんで冷ややかな目で見られながらも社会で一生懸命頑張ればいいじゃねえか。それができないから嫌われてるんだと気づけ。お前らは差別されてるんじゃないんだ。嫌われてるんだ。
まあ、こんな暖かい言葉をかけているおいらですが目の前に現れたら「これはマルディーニの分! これはモリエンテスの分!」とか言いながら喉笛につま先突き立てるんでしょうが。「これは達也の分!」
これはヘイトスピーチでおいらはレイシストだと思う。しかし、こんな都合のいい自己正当化をみて嫌わないわけにはいかないし、嫌われない方法を教えないわけにもいかない。
posted by ミラクルさん at 01:45|
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